犬の口の中にできる悪性腫瘍 – 悪性黒色腫、メラノーマ –
すっかり冬。それでも、仕事終わりには気持ちも体も熱くなっていて、薄着で夜風にあたりたくなります。こういう時には風邪を引きます。
今回は、口にデキモノができた15歳の犬くんのお話です。悪性黒色腫というガンで、顎の骨を一部取る手術をしました。犬くんは来月で16歳になります。そして犬くんは、お母さんのことが大好きです。
歯周病の治療をしましょうと、飼い主さんにお話をしていましたが、年齢的に全身麻酔のリスクが気になるとのことで、ご家族はなかなか処置に踏み切れませんでした。今回、口臭だけではなく、口の中に何かできてることに気付かれて、その詳しい診察も兼ねて全身麻酔をかけることになりました。
ご家族は、診察前に、犬くんの口の中にできる腫瘍についていろいろと調べられたようです。そして、最悪のことも想定して、今後どのようにするか話し合いの時間を持たれたようでした。
犬の口の中には、悪性腫瘍ができることがあって、その一つに悪性黒色腫があります。これは手術で取り除いても、再発や転移が多いことで知られている、いわゆるガンです。
この犬くんは、口の中を触られるのが好きではありません。家族であっても、デキモノを見ようとすると嫌がります。それでも、自然に口を開けたときに、何かがあるのが見えたとのこと。さらに詳しく見るために、麻酔をかけて歯周病治療とデキモノを検査します。
高齢犬の麻酔は、若い犬と比べてリスクが高いものです。そのために、獣医師も飼い主さんも躊躇することが多く、治療が遅れたり、見送られてしまったりすることがあります。
獣医師は、どのような全身麻酔処置でも楽観的になることはありません。が、慎重に行えば、安全性は高いと考えています。本来全身麻酔をして行うべき治療が、年齢によるリスクだけでできないのは残念です。全身麻酔のリスクは、年齢も考慮しますが、全身状態を総合的に評価して判断します。
麻酔がかかった状態で、口の中を調べてみると、下顎に人の親指くらいの黒いデキモノが見つかりました。飼い主さんも心配していた、悪性黒色腫の可能性が高そうです。ひとまず病理組織検査をするために、できるだけ大きく取り除きました。見た目では、全部取り切れた印象です。もし、病理検査の結果、悪性黒色腫だと確定すれば、さらに大きく取ることも検討しなければなりません。
病理検査の結果は数日かかります。病理検査の前に大きく切り取る、例えば顎の骨ごと切除するのは、もし悪性腫瘍ではなかったとすればやり過ぎです。今回は病理検査と、できるだけ取り残しがない範囲での手術を行いました。
デキモノは、一見するとかなり大きく見えましたが、実際に大きいのですが、触って確認すると、根元は表面よりも一回りほど小さめでした。きのこのように、椎茸というよりもマッシュルームのように、口の粘膜にくっついている軸が傘よりもやや小さくなっています。
取り残しがないように、切り取り線を意識しながら、腫瘍ギリギリではなく、やや余白を取りながら切開しました。
歯茎のような粘膜は、血管豊富で、メスを少し動かすだけで出血します。何もしなくても止まる出血も多いのですが、細かな手術では血液が切開ラインや視野を妨げるので、丁寧に止血しながら手術を進めます。
歯茎は、皮膚のようには伸びません。大きく切り取るだけ切り取っても、その後で縫い合わせることが難しくなることがあります。腫瘍を取り除いた後の縫合のことも考えながら、できるだけ大きく切り取りました。
口の中の腫瘍を切り取る手術で意識するところは、丁寧な縫合です。水や食べ物が縫合部分に触れるので、縫い合わせたところが開いてしまうといろいろと問題が起こります。できるだけ大きく切り取って、しっかりと塞ぐ。これが大切。
治療前と、治療後で、デキモノがないだけで口の中がかなりすっきりとしました。麻酔からの覚醒も順調で、もともとパワフルな犬くんは術後も元気です。
日帰りで帰宅して、経過はとても順調。
後日、病理組織検査の結果が届きました。心配していた悪性黒色腫、メラノーマと呼ばれるものです。
結果をご家族にお伝えしました。そして今後の相談です。いくつかの選択肢があります。
・下顎の骨まで取る、拡大手術をする
・メラノーマワクチンをする
・抗がん剤を使う
・放射線治療
この中で、最も効果的で、最も現実的かつ、生活の質が保たれるのは下顎の骨まで取る拡大手術です。
ワクチンはまだ使える施設が少なく、データも限定的。悪性黒色腫に対して安全確実に小さくする抗がん剤はありません。放射線治療は毎回全身麻酔が必要です。
ひとまず、腫瘍専門の動物病院でセカンドオピニオン外来を受診していただきました。そこでの意見も合わせて、結果として下顎の骨まで取る拡大手術のみを行うことになりました。
手術は当院で行います。
僕も手術について検討し、いくつかの注意点について、できるだけ複数の安全策を用意したところで手術当日を迎えました。
左の下顎を一部だけ残して、ほぼ全部取り除きます。取り除くのは全体の4/5ほど。顎の関節近くだけを残すことにしました。下顎の骨を切断するときの注意点は、骨の中にある血管と神経を傷つけないことです。下歯槽動脈、下歯槽静脈、下歯槽神経があります。これらは骨の中にあるので、外からは見えません。
血管と神経を骨と一緒に切断してしまって、そこで起こる出血を止める。そんな方法もありますが、僕は運任せのような手術はしたくはありません。確実に止血をするために、骨を切るのではなく、削る道具を使うことにしました。
骨を慎重に削っていくと、血管と神経を傷つけずに露出できます。血管と神経がしっかりと見えたところで、超音波メスを使って血管をシールする。つまりは、血管を閉じて出血を予防します。椎間板ヘルニアの手術でも、同じような方法を使うので、慎重にやれば問題ありません。
あるところまでは、ラウンドバーと呼ばれるドリルで削る。血管と神経が見えたら、ロンジュールという道具で骨を小さく砕きながら残った骨を取り除く。さらに、骨ノミをトンカチさせて、丁寧に骨に切れ目を入れる。
他にも、超音波手術装置があって、これは骨は削れるが血管は温存されるというものですが、今回は出番なしでした。
この下歯槽動静脈の処理が安全に終われば、あとは難しいところはありません。丁寧に骨を外し、しっかりと縫い合わせて終了です。
僕が犬の顎の骨を取る手術を初めてトレーニングしたのは、オーストラリアのブリスベンで2006年1月のことでした。今でも活躍されている、ブリスベン獣医専門病院のロッド・ストロー先生に教えていただいたのを鮮明に覚えています。もう20年も前のことです。
外科手術のトレーニングは、これからできるようになりたい手技、そのときはできないことを教わります。そのために海外にまで行くわけです。教わる前には、知識だけはありますが、経験値は完全にゼロです。教わっているときは、知識の更新だけはある程度できますが、実際に自分でその手術をすることがあるだろうか、イヤきっとないだろうなどと思うことがほとんどです。
大切な話の中で、不適切な例えかも知れませんが、3日かけてフォンドボーを作り、それを使ってさらに8時間かけてドミグラスソースを作るような感じでしょうか。
作り方は知ってはいたけど、実際には作ったことがなかった。この度、作り方を教わったけど、今後自分で作ることがあるのだろうか。そんな感じです。
今回の手術も、かつては未経験だった手術。これまで何度もやってきた基本手技を組み合わせて行います。さらに、できるだけ多くの安全策を講じ、使える道具を全て使う。
一次診療と呼ばれる動物病院では、どのような疾患も対象にします。そのために、1年に1回しかみない病気や、数年に1回しかやらない手術があり、なかなか経験値が上がらないという悩みがあります。これは仕方がないことです。体験してきたものをサビ付かせないように、日々鍛錬しなければなりませんね。
犬くんは、早い段階で退院しました。手術から数日経った今では、しっかりと食事が取れているようです。とっても甘えん坊の犬くんは、お母さんに用意してもらう食事を上手に食べているとのこと。顎の一部がなくなったので、慣れるまでもうちょっとでしょうか。
大きな覚悟を持って望んだ手術。さらなるご長寿を期待しています。